杉原千畝の杉原ビザとユダヤ人難民、流浪の民としての生き方 


今回のテーマは、

杉原千畝の杉原ビザとユダヤ人難民、
流浪の民としての生き方

について紹介します。

多くの人のイメージでは、

ユダヤ人には、

商売がうまい=狡猾である

というステレオタイプがある
かもしれません。

しかし長い間世界中から差別され、

その国のエスタブリッシュに
入り込めなかった歴史を持つ

ユダヤ人は、頭を使って
商売してお金儲けをするしか
生きる道がなかったというのが、

一面の事実なのです。

そこで他の民族とは違う
売り方や売るものを考え、

付加価値を付ける商売に
活路を見出してきたのです。

しかしひとたび世の中が
混乱し景気が悪くなれば、

たちまちユダヤ人は白い目で見られ、
世界中で迫害を受け、

生き延びる為に流浪の民になる
事も厭わなかったわけです。

そうしたユダヤ人に手を差し伸べた
日本人が存在します。

そんなユダヤ難民にビザを発給し
続けた杉浦千畝(すぎうらちうね)さん、

第二次大戦中、

リトアニア領事代理だった杉原は、

ユダヤ難民救済のために
迅速にビザ発給を行いました。

そこからユダヤ難民は、

シベリヤ経由の逃避行、

船で浦賀に上陸、
神戸にたどり着きました。

杉浦ビザによって
命を救われた子供たちの中には、

後に世界的著名人になった人がいます。

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杉原千畝の杉原ビザとユダヤ人難民

ナチスドイツによる
歴史的大虐殺も経験し、

そうした過酷な状況で
サバイバルをする為に、

誰もが思いつかないような
脳を極限まで使って生き延びる
ことができたわけですが、

杉浦千畝の「命のビザ」で
助けられた6000人のユダヤ難民と

その子供たちの中に
今日の世界的著名人がいます。

通貨先物取引と言う
アイデアを考え出し、

自身が会頭職を務める
シカゴ商業取引所を

世界最高の通貨先物市場
に育て上げた

レオ・メラメッドも
その一人です。

先物市場で扱われる物は
長らく農産物、畜産物に限られ

通貨は、彼が考えつく
1970年頃まで

誰も思いつかなかったのです。

彼がこの概念を閃いた背景には

子供の頃、ホロコーストからの
逃避行の中で覗き見た、

両替市場での不可思議な
体験があったそうなのです。

彼の一家は、国々を
渡り歩く中で、

ポーランドのズロチ、
リトアニアのリタス、
ロシアのルーブル、
日本円と米ドルと、

実に5種類もの通貨を使い分け、

各国の公式市場と闇市場との
間の為替レートの格差を利用して
利ざやを稼ぎ、

巧みに滞在費を工面したのです。

この逃亡生活の中で、
通貨に対する彼の鋭利な感覚が
磨かれたのでしょう。

杉原ビザで生き延びたユダヤ人著名人

メラメッドは日本での滞在生活について
懐かしい思い出を語っています。

彩り豊かな女性の着物、
奇妙な履物の下駄、
美しい山並み、

幼い少年の目に、日本はまるで
おとぎの国に見えたそうです。

とりわけ彼を感動させたのは、
人々の親切心でした。

他の国では彼の手を
絶対に離さなかった母が、

日本人の人なつっこく友好的な
態度にすっかり安心して
彼を自由に歩かせてくれたほどです。

神戸の町で迷子になった時には、

見ず知らずの日本人が両親と
一緒に彼を捜してくれたそうです。

メラメッド一家と同じく
杉原ビザで命を救われたユダヤ難民が
ツェル一家でした。

5ヶ月間の日本滞在の後、
渡米に成功し、

その直後に生まれたのが
破綻企業の買収で世界的に知られ、

「墓場のダンサー」のあだ名を持つ
全米屈指の大富豪、

サミュエル・ツェルだったのです。

ヒトラーと握手をしユダヤ人を助けた人

また杉原千畝の発行したビザ以外にも、
私たちが知っておくべきなのは、

ヒトラーと握手をして
日独伊三国同盟を結んだ

松岡洋右外相です。

ヒトラーと握手と言えば当然
ユダヤの敵に思われるかもしれませんが、

同盟を結び帰国したとき

「私はヒトラーと握手をして、
友人になる事を約束しました。

しかし反ユダヤ主義に関わる事だけは
固くお断りしてきたのです。」

と公の場でそう言ったのです。

ヒトラーと軍事同盟を結んだのは
もちろん事実ですが、

彼はユダヤ人撲滅思想には
共鳴しなかったわけです。

実際に松岡外相のこうした
背景があるからこそ、

杉原千畝の活躍もあるわけです。

当時リトアニアで発行する
ビザは有効期限が

10日だったり、30日だったり
90日、或は120日間だったり、

非常に短期的なものでした、

その短い期間で安全な場所に
移動するのは困難であろうと、

全てのビザを9ヶ月間に延長したのは、
松岡洋右外相によるものでした。

日本にやってきたユダヤ人

また杉原千畝の時代から進んでも、

流浪の民として世界中を
転々とするユダヤ人は多く、

日本を安住の地とする
ユダヤ人有名人もいます。

日本で活躍するユダヤ系文化人の
筆頭が、

数学者で大道芸人の
ピーター・フランクルさん

彼は18歳で数学オリンピックの
金メダルを獲得した俊才です。

数学や理論物理学は
紙と鉛筆さえあれば、

いつでもどこでも
一人で研究する事ができるため

流浪の民、ユダヤ人には
格好の学問です。

アインシュタインや
フォン・ノイマンを始め

この学問で世に知られた
学者の多くがユダヤ人なのも

こうした因果があるのでしょう。

フランクルはハンガリーの
圧制と反ユダヤ主義を逃れ

世界を放浪した後、
1982年に日本にたどり着きました。

流浪の民という点では
リービ英雄も同じで

父親の仕事の関係で
少年時代に香港、台湾、横浜と
東アジアを転々とします。

「ヒデオ」は父の友人の日系アメリカ人
にちなんでつけられた名前です。

リービは『万葉集』の英訳により
全米図書賞を受けた日本文学者であり、

同時に母国ではない日本語で
小説を書き続ける希有な才能の
持ち主でもあります。

個の才能を頼りに生きた流浪の民としての生き方 

ジャズ、ロックなど音楽の
活動で知られているのが、

74年に来日した
ピーター・バラカンです。

父親はポーランド系ユダヤ人で
父親の親族はすべて

強制収容所で非業の死を
遂げたそうです。

外国人向けの
『新漢英字典』を完成させた、

ドイツ生まれの
ジャック・ハルペンは

6カ国に移り住み
12カ国語を習得しています。

得意の漢字を活かして
春遍雀來という日本名も使用しています。

杉原千畝の杉原ビザで逃れた
ユダヤ人難民、

日本で活躍するユダヤ人の
4人の共通点はいずれも

「個の才能」を頼りに生きている
と言う点が挙げられます。

また世界各国を頼り歩いた
「流浪の民」と言う点も指摘できるでしょう。

ユダヤ人は長く流浪の民であり、

それは見方によれば大変
不幸な事だったでしょう。

一方でそれ故に自然と
グローバルな考え方を身につけ、

地理的、時間的なハードルを
超越するような生き方が
できるようになったのです。

その結果、国境や文化、
言語の壁にとらわれない

自由な発想が磨かれ、ますます
成功を収めるようになりました。

長い歴史の中で迫害を受け、
長らく流浪の民であったユダヤ人、

そうした中で彼らに
一筋の光をともしたのは
日本人だったとも言えます。

「この国にたどり着くまでに、
長い間ずっとさまよっていたような気がする」

とフランクルが自伝の中で
語ったように、

日本は彼らが見つけた
安住の地なのかもしれません。

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