ルネ・デカルトが生んだ「疑う」思考、疑問を持つ事の重要性


今回のテーマは、

ルネ・デカルトが生んだ「疑う」
思考、疑問を持つ事の重要性

について紹介します。

幼少期には誰もがみな

「なぜ?どうして?」が
口癖だったはずですが、

いつしか大人になり
疑う事をしなくなってしまう…

というのが通常の傾向だと思います。

前回紹介した「疑う」という
思考法の重要性を世間に知らしめたのは、

1600年代に活躍した
フランスの哲学者ルネ・デカルトさんです。

「我思う、ゆえに我あり」

というのは哲学史上で最も
有名な命題ですが、

彼の「疑う」と言う思考が
「近代哲学の父」と言う称号を
受けた由縁とも言えるでしょう。

思考の幅や深さをいっそう深めるために
「疑う」と言う思考法を加え、

さらにドラッカーが提唱する
「疑う」思考を超える思考法を
マスターすれば、

私たちの知的生産のレベルは
なお一層向上させる事が出来るでしょう。

疑問を持つ事は重要なのです。

とにかく疑う癖を付けてみる

前回紹介したインターネット上の
情報を疑って読みましょう、

と言う行為はインターネットに
限った話ではなく、

本や書籍など印刷物を読むときもそうですし、

(ある程度の節度をわきまえて)
人の話を聞くときもそうなのです。

私が今ここで書いてある文章を
読む場合ももちろん例外ではなく、

疑って読むべきなのです。

「これって本当だろうか?」
「別の考え方があるのでは?」
「それって正しいのかな?」

こういった思考法こそが私たちの
脳を強くしてくれます。

疑問を持つ事で考える力がつくのです。

学校教育などでは、

物事を素直に受け入れ
真に受ける事は大切な事もありますが、

成績優秀の優等生ほど、
素直でものごとを疑わずに
受け入れる人だったりします。

しかし社会人のビジネスパーソンにとっては、

特に情報過多の現代社会、
情報に力がある情報化時代には

疑う力こそがパワーになるのです。

デカルトとドラッカー

実はドラッカーの著書内にも
デカルトに関する言及があり、

『新しい現実』と言う著書で
デカルトの疑う思考について書かれています。

ドラッカーは、
社会生態学者の観点から、

分析的な概念ばかりではなく
知覚的な認識の重要性を説きます。

分析的な概念と言うのは、

対象を出来る限り細かく分解して、
それぞれについて検討する態度を指します。

還元主義とも言われますが、

この手法の重要性を強調したのが
デカルトです。

一方で、ドラッカーは
細切れの部分を分析的に検証するのでなく、

全体を見て部分を理解する事にも
留意すべきだと主張します。

なぜなら部分とは全体との
関係において存在し意味を持つからです。

全体と部分をどちらも見る

疑うと言う思考法は
デカルトの説く還元主義と
相性がいいです。

この全体主義と還元主義は
医学の分野で見られる兆候なのですが、

現代西洋医学と呼ばれる分野では、

徹底的に部分的に人体を分け、
その分野のプロフェッショナルがいます。

呼吸器、循環器、耳鼻科、小児科など、、

細かく分解されそれぞれが
対処しようとします。

一方で、
アーユルヴェーダなど
古代的な自然療法の世界では、

何か病気が発生した場合、

病気の原因は実は仕事に
ストレスがあるのではないか?

家庭環境にあるのではないか?

など生活全体を見て
問題を突き止めようとします。

どちらも一長一短があり
どちらが良いとは言いにくいですが、

どちらの思考法も身につけておく事は大切でしょう

思考力を一層深める方法

ドラッカーも著書内で

『デカルト以来、重点は概念的分析におかれてきた。

しかし今後は、概念的な分析と
知覚的な認識の均衡が必要である』

と述べています。

前回からこのサイトでは
疑問を持つ事の重要性を紹介
してきました。

この事はデカルトの死後
350年経った現在も変わらないですし、

今後も同じでしょう。

しかしこうした疑いを持った
分析的な態度に加えて、

ドラッカーも指摘する全体との関係で
分析対象を見るようにすれば、

なお一層思考を深める事が出来るでしょう。

いずれにせよ、まず疑って掛かる、

これは情報をインプットする際の
最も基本的な態度でしょう。

そしてこの態度は、

自分自身のオリジナルな情報を
アウトプットするための基礎ともなります。

疑う事で、自分なりの意見や
主張を作り出す事が出来るからです。

さらにその上で、
ドラッカーが指摘するように、

ホリスティックに全体的に
物事を見る力も養っていくといいでしょう。

そうすれば、自分の意見や主張を
さらに深めを持たせられるの違いないのです。

情報の扱い方の差が結果の差を生む

私たちは幼少期から学校と言う器官で

疑う事をしない素直にインプットする
癖を付けられてきました。

「1+1=2ですよ」
「聖徳太子が日本で初めて憲法を作ったのです」

そしてその答えに合わせる生徒ほど優秀
だと言われてきたので、

疑う事をしない癖がついています。

しかし疑いを持つ思考をすれば、

1足す1は2だって言うけど、

「水1滴に水1滴を加えたら水1滴になるじゃないか
ということは1+1=1になるんじゃないか…」

「よくよく調べてみたら聖徳太子は
実在しないと言う説が出てくるぞ、
本当は違うんじゃないか?」

…といった深い思考が出来るようになってきます。

こういった思考は平等が基準の
学校生活ではうまく行きませんが、

社会に出てからは他者と違う考えを
打ち出せるほど結果に違いをもたらせるようになります。

さらにそこに全体を捉える思考を加えて

「正解はひとつじゃないと言うのは真理だが、
ここは素直に覚えてテストでいい成績を取っておいて
いい大学に入った方が有利だな、

でもそれだけでは頭が鍛えられないから
学校の勉強以外にも、独自に勉強する癖を付けよう、」

といった態度をとる事も可能です。

「疑う」思考、疑問を持つ事の重要性は
社会人になってからますます高まるのです。

インターネットが生んだ知的生産の差

インターネットの出現は
人間の世界観を大きく変えました。

インターネットにより、
私たちは必要な情報を見つけ出す
可能性が格段に高くなりました。

そしてドラッカーの指摘通り、
インターネットは

私たちの勉強の仕方や質に
大きな影響を及ぼしています。

しかし一瞬で必要な情報を
手に入れる時代だからこそ、

その受取手である我々の
思考法に違いを出さなくては行けないのです。

それがデカルトが生んだ「疑う」
思考の重要性であったり、

ドラッカーの説く、全体像を把握する
思考法だったりします。

いずれにせよ、インターネットの出現は
知的生産は大きなインパクトを与え、

それを使いこなす人の違いによって
強力なパワーを生む事になるのです。

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