江戸時代の豪商、三井高利に学ぶ越後屋の商法、商売のコツ

江戸時代の豪商、三井高利に学ぶ越後屋の商法、商売のコツ
今回のテーマは、

江戸時代の豪商、三井高利に
学ぶ越後屋の商法、商売のコツ

について紹介します。

三池の祖先は近江、佐々木源氏に
使える大名でした。

三井越後守といいました。

『越後屋』という店名は
この越後守から取ったものであり、

別に三井家の祖先が越後(新潟県)
生まれだと言う訳ではありません。

つまり「三井の越後屋」が略されて、
「三越」になりました。

三井家が商売を始めたのは、

佐々木家が織田信長に滅され
三井家は伊勢の松坂に逃れます。

そこで逃れた三井越後守高安
の子、三井高俊が、

質屋と酒屋を営むのが始まりとされます。

が、実際には高俊は商売熱心より
むしろブラブラするのが好きで
奥さんの殊法が店を切り盛りします。

そして、高俊、殊法の子である

俊次、弘重、重俊、そして
末っ子の高利です。

兄弟それぞれが努力し、
店はやがて繁盛して行きますが、

一番若い高利は生まれつき
経営の才能に恵まれ、

店の者、番頭さんたちからも
良く慕われていました。

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越後屋の商法、商売のコツ

三井家の兄弟は
やがて呉服に商売を切り替え、

瞬く間に大成功を収めます。

ここで屋号を「越後屋」と称し、

江戸でも京都でも商売は発展、
名実共に商売が発展して行きます。

兄弟の中で商売の異才を
放っていたのは四男の高利ですが、

結局、家族の関係に翻弄され、

普通なら隠居となる年52歳の時に
本格的に越後屋の長として、

商才を発揮するようになるのです。

三井高利の商売の特徴
として挙げられるのが、

「客を武士から一般に変える」

と言う決断であったり、

日本にはまだなかった「宣伝」を
始めた事ではないでしょうか。

順調に言っていた呉服の
商売もブームが鎮静すると、

高利は素早く方向転換します。

当時、商人が見本を持って
武士の家に持って行き選ばせる

と言うのが当たり前で舌が、

お客さんに店にきてもらう
と言うスタイルを取ったのも
越後屋が始まりです。

そしてうまく行った越後屋を
他店が真似するようになると、

巧みな宣伝を演出します。

雨に日にお客さんの傘を貸し、
そこには「越後屋」と言う大きな
文字が書かれていたり、

芝居作家に頼み

「越後屋と言うセリフを入れてくれ」

と多額の礼金を払ってお願いする。

その芝居で主役が

「呉服は有名な三井越後屋に限る」

と書き加えますから、

芝居を見ていたお客たちも
越後屋を認識します。

今で言うコマーシャルの元型を
作ったのも三井高利だったのです。

全て安住に満足せず、
革新を取り入れたのが、

越後屋の商法、商売のコツであり
江戸時代の豪商となりえた秘訣なのです。

三井高利に学ぶ商売のコツ

そんな江戸時代の豪商で、
三井家の家祖である

三井高利が商法のコツを
語った言葉ですが、

「商売は決断力を最も必要とす。

例え一時の損失を忍んで見切るとも、
後日に至ってより大なる消耗を醸すに勝る。」

と言います。

つまりお金というのは
活かして使わなければいけません。

お金儲けの上手い人は
そのあたりが巧みですが、

「貧乏人の銭失い」

と言われるように貧乏人は

わずかな金銭を惜しむので
お金が死んでしまうのです。

お金に縁があるのもないのも、
ズルズルとお金を使ってしまい、

金銭に対する覚悟が
足りない結果なのです。

不思議な事に、世の中には
おカネに縁のある人とない人がいます。

少しくらい使っても
ちゃんとお金を貯める人もいますが、
どこが違うのでしょうか。

それは、お金の溜まる原則を
本能的に知っているからと言えます。

お金が儲かり、貯めるためには
色々なお金の原則がありますが、
それは商売にも言えます。

そこで商売の天才と呼べる、

三井家中興の祖、
三井高利に学べることは多いでしょう。

江戸時代の豪商、三井高利と三井財閥

現在の三井財閥の礎となる、

江戸に呉服屋「越後屋」を開き
人並み外れた商才で

現在の三越デパートの
もとを築いた三井高利は

子供のころからお金と商売の
原則を知っていたそうです。

なかでも高利が重く見たのが
見切る決断力というものです。

それは言葉を換えれば
目先の小さな損にこだわるなという事、

不利な時はたとえ一時的に
損すると分かっていても、

思い切って損する決断力が大切です。

ズルズルと続け、時期を失い、
後からより大きな損害を受けるのが
最もよくないと言う事です。

投資などやっている人は
この言葉をよく覚えておいた方がいいでしょう。

決断力がなければ
お金儲けはできないと言う事です。

ちなみに先ほどの言葉は、
三井高利の長男、高平が

父の言葉をまとめた
三井家家訓である
「宗竺居士家訓」にある言葉です。

元禄7年(1694年)73歳で
大往生を遂げた高利は、

死期を悟っていたのか
既に遺書を書いて同族に示していました。

長男を総領家とし、

子供11人、男5女6の中から

男子6人を選び、三井六家とする。
されに連家三家を設けるとし、

このシステムについて高利は、

「一本の矢はすぐ折れる。
しかし数本の矢は束ねれば折れにくい」

と言う毛利元就の故事を例にし、

「それと同じで一家一本、
身上一致を原則とせよ」

と遺訓しました。

それが結果的に戦後にかけての
三井家の財閥としての
発展につながったのでしょう。

このきっかけを作ったのは
まぎれもなく江戸時代の豪商、

三井高利の越後屋の商法にあったのです。

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